昭和46年07月08日 朝の御理解
御理解 第8節
「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」
信心しておかげを受けてくれよと、神様の心からの願いであろうと思いますね。神様は、屑の子ほどかわいいと仰せられるから、屑の子に言うならばご厄介者、却って不信心になった方が神様が可愛がって下さると言った様な、是はお道の中での笑い話では、そういう事が言われる訳でございますけれども。私共はどこまでも矢張り願うところは、本当に神様に喜んで頂けれる氏子にお取り立て頂くと言う事にあると思うのです。
出来ません出来ませんけれども、矢張り願いとしてはです、神様の機感に適う神様に喜んで頂ける氏子にお取り立てを願うと言う事。それが信心なんです只神様に可愛いと思うて貰うだけなら不信心であれば可愛いと思うて頂くだけであって、可愛い者じゃと言うて神様とてもどうなさる事も出来んのですから。例えば信心のない人達の言い方とか生き方なんかを私共は見ておって気の毒だなぁと思う様な事がありますよね。
たったそういう様な問題を信心頂いておる者なら、有難く頂けるだろうに信心のない人薄い人は、それを難儀なこととして、それを受けておると言う。そういう事を思うでしょう。気の毒だなぁと思うでしょうが。だから気の毒だなぁとこう思われただけではいけません。神様から、ああ可愛い者じゃ、それでもまあ仕方ないという訳であります。可愛いと言うて、神様が撫で擦りして下さる訳にはいかんのです。
ですからどこまでも私どもは、所謂ぎりぎりの処はね、自分と言うものが分かれば分かるほど自分の様な厄介な、神様にお厄介をかける者はあるまい。神様の御心に添わない自分と言うことをです、段々分からせて頂いて屑の子の自覚という事になってくる訳ですけれども、それでも矢張り、屑の子の自覚に立ちながらもです、どうぞあなたの心に近付かせて下さい、あなたの心に添う私、喜んで頂ける私にお取り立て下さい。
それが信心なのです。段々信心が分かって参りますと、屑の子の自覚ということが非常に強くなってくる。そういう意味に於いて、屑の子の自覚が出来ますとね、神様は確かにおかげを下さいますよね。私は今日御神前でね「信一つの集まり」と言うことを頂いた。信心の信、一つの集まりですね。これはどういう事だろうかと、私は思わせて頂いたが、まあ私一家の事を思うてみました。
私一家例えば大坪一家の家のことは、成程「信一つの集まり」だと思うのです。どういう問題が起きて参りましても、どういう場合でありましても、帰するところは、信心の話になってしまう。帰するところは、御神意のままで動こうということになる。昨日久留米の石井誠之助さんところの子供さんの五十日祭でございましたから。私が、あちらへ参りまして、その帰りの車の中でしたか、石井喜代司さんが迎えにきて下さっておりましたが、、喜代司さんと若先生が話しておられるのです。
最近、若先生、私は有難いと思います事はと言うて、運転台の横に乗っております若先生に、話かけておるのです。私の方もそうですけれども、最近は弟の家でも、何か今度の場合等は、十日祭十日祭を仕えさせて頂くのに、誠之助さんの方は信心の要領が分かりませんから、何からかにまで、兄さんの喜代司さんに相談する訳です。ですからあちらは兄弟ですから、家族中の者が集まる機会が多い訳です。
そうすると、結局は私の話を皆が聞いてくれることになりますとこう言う。ですから、どういう問題でも、私の話を聞いてくれますから、話がそこに一つに集まってる。それはいかん。こげんが良かと言う者は、誰もおらん事になってくる。言わば、家族中でその様な信心共励が、最近、出来ておる事は、非常に有難いと思いますと言うております。そしたら若先生が、いや、私の方もそうでしたよと。
今はそれがあまりこう広々となったものですからね、家庭の中で家族中のものが集まることすらが無い。年寄りは年寄りの部屋、若い者は若い者の部屋、子供達は子供達と、ちゃんと一人が部屋、一つの個室を頂いとりますからね。なかなか集まってと言う事も無い。さあと言うて、お食事の時に集まってくる時には、もう修行生の方も他所から来てる子は、う一緒んたくりですから中々もっとらっとした話は出来ません。
けども椛目の時代は、いつもあのお広前の横の楽室に何かこう集いますと、皆こう集まって来てから、結局は一家中で信心の共励が出来ておった。本当にあの時分に、大坪の家の信心の共励が出来たと思いますという事を、若先生が喜代司さんに話しておる。喜代司さんもそれを話てる。私は信一つの集まりと言うのはそういう事ではなかろうかと思いますね。それはいくら兄弟でも親子でも意見は食い違います。
けれども事信心の共励になり、話になってなって参りますと一つになってしまう。まあ喜代司さんとこで言うと、いよいよ纏まらん時には、親先生はどう仰るかということで、話が纏ってしまいますとこう言うのである。成程信の一つの集まりである。私は告別式と、この五十日祭とだけは奉仕し、後は全部十日十日のお祭りは、若先生が行ってくれました。私は今度行ってから、本当に有難いと思ったことは、そういう子供のあぁした事故死という悲しい事柄から、段々家族の中の者がおかげ頂いて。
信心の無かった弟達まあ喜代司さんから言えばですね、弟達夫婦が信心に段々なってきて、私の信心の話が分かってくれる様になった。今迄は分からなかった。けども今まで現在集まるたんべんに、色んなお話ですけど今度の二十日祭はどげんするか、三十日祭はどうするか五十年祭はと言うてそのたんべんに集まる。集まって喜代司さんの話を、結局聞く事になるそしてほんに、兄さんそうじゃなあと言う事になってくる。分からん所は親先生にお願いして、決めようじゃないかという事になってくる。
私は今度参りしてから、早速有難いと思った事は、そういう悲しい事がきっかけになって信心になって、今度中々文化住宅風に出来とる家ですからね。洋間風のやら部屋が広過ぎたりして、神様を奉斎する部屋がない。それが丁度是は居間に使っとる部屋じゃないと言う、畳の敷いた部屋が一部屋ありましたから、勿論床の間も何もありませんから、作り床ですけれども、丁度この畳一枚くらいな、それは見事なここの建具を作りました、指物屋さんがやっとりますから、見事な出来です。
それを高橋さんが色々工夫して、その部屋に合う様な風に作りましたから、もうその四畳一間が、もう本当に、神様のお部屋という感じ。それは見事なお神様の間が出来ました。御神様を御霊様を奉斎する。所謂昨日新御霊様からまぁ御霊様の、一般の御霊の列に加わわられるという、昨日は式でございますね、五十日祭ですから。もう申しました。これはどげん不信心者でん、これだけ立派にお神様が出来るなら、ここに入ってきたら、御祈念せねば居られんごたる気がするねと言うように立派なとが出来ました。
それは本当に有難いなぁと。もうですから嫁御が大体、信心がありませんけども、未だその神様をお祭りした事が有難いじゃないでしょうけども、その子供の御霊屋が出来たことが、有難うして堪えんごたる風じゃんね。これからも本当に一つまあ信心にならせて頂き。まあこれは余談でございますけども、昨日新御霊様の方の御挨拶させて頂いておる時でしたか、あの亡くなりました子供が、丁度小学校の一年生でございました。一年生の子供が、この洋服を着てランドセルをからうてね。
あの学校へ行こうというような姿を頂くのです。そしてお母さんお母さん、帽子がなかったら学校に行けんじゃないねと言うてから、帽子を一生懸命探しとるところを頂いた。そして両親が玉串を上げる時に、丁度私がそれこそ私共がこちらの部屋からこちらの部屋まで移らなきゃならんから、途をこう明けさせておる。両方に振り分けに拝む者が並んどったから真ん中を開けさせて、私どもが遷座することのために開けとった。
所がそこん所をさぁっとですね、帽子が見付かってから御霊屋に移る姿を頂いた。それが両親が玉串を上げると同時でした。その事を私は聞いて頂いたのですけれども、是から御霊ながらにも矢張り勉強があるだろうと、御霊ながらに修業があるだろうと。けれどもその勉強のヒントを与えてくれる。言うなら是から信心を御霊ながらにも安心の御霊としておかげを頂かれる為には、矢張り親の信心がそのヒントを与えるのだと。
帽子がない帽子がないと言うとったのは、どういう事だろうかと私は思うたが、帽子と言うのは頭のこと。信心ばかりは、御霊様関係の事ばかりは、人間の智恵、力では分かることではないのだ。まぁなかなか、誠之助さんも頭の良い人じゃが、なかなか嫁さんも、なかなか大変利発な方。ですからなかなか信心と言うても、例えば今まで喜代司さんが話されることなどをですね。
いちいちはぁそうですね兄さんと言うて、聞けない内容を持っておった。所がこの度本当にお話をさせて頂いておると、いろんな場合にもです、あの四十日祭だけは参りませんでしたが、喜代司さんが中心になって御祈念をさせてもらった。その後に御理解を頂いとることなんかは、もう本当に有難い事を頂いて、それを家族中弟達の家族中の者にも、それを本当に納得いくように、お話しておる話を聞きましたがね。
その喜代司さんの信心に集まってしまう。だからこれからは、神様を御霊様を頭で考えるようなことをするなと言うことであろうと言うて話した。だから、これから、いうならば、ランドセルかろうて、お帽子を被って学校通いをするように、御霊は御霊ながらの修行があろう、御霊ながらの勉強があろう。それにヒントを与えるのは、親の信心だと言う様な事を頂きました。
そういう様にして、成程、信一つの集まりに、喜代司さん一家だけではなくて、親戚までがその一家。家内の里の、お父さんお母さん、兄弟、叔父さん達も、皆見えとりましたが、もう行くたんべんにです、金光様の信心が、まあ有難いと思うて頂いておるだろうと思うのです。その態度が、皆さんのね。信心はなさらんけれども、本当に、私が参りますと私を中心にして、お祭りが仕えられるわけですけれども。その奉仕をしておられる姿から、それを感ずることが出来る。
所謂親戚にまでその信一つと言う事、こと信心の事に限ってではありましょうけれども。それが生活の上にも、そういう事になって参りましたら、いよいよ信心一家信心一族として、おかげを頂いて行く事が、出来るだろうとこう思います。それを喜代司さんが、若先生と、自動車の中で話しておるんです。もうこの頃は集まると共励会でございます。結局、留まるところは、信心で事が運ばれる。
分からんところは、親先生にお伺いをしてからという事になる。これは私の方も同じだと、若先生も言っておりますように、信一つの集まりと言う事は、そういう事でもある訳です。それをも少し大きくしていったら、合楽という教会と言う事になるだろう。合楽の信奉者の皆さんが、信一つの集いである、集まりである。ことという時には、その信者さん方全部が、千人がおるなら千人の信者が、打って一丸になって、信一つに進んでいくところに合楽教会の御比礼が必ずあると、私は信じます。
それが金光教全体に広がって参ります。いや全世界の宗教という宗教、人が助かることさえ出来ればというような意味に於いての宗教であるならばです。如何にあることが人間の幸、人間の世界の幸福と言うことをです、焦点において話し合ったら、すぐ分かることであろう。私は信一つの集まりという事を、そういう大きな意味合いにまで、段々自分の心が大きく思いを致したわけでございます。
私が言う本当に全世界が和賀心一つに結ばれていく。人間の幸福というのは、和賀心なしに、人間の幸福は望めない。そこでほんなら、和賀心にならせて頂くことのための手段、又は、信心と言うものがです、どうあらなければならないかと言うことに焦点を置いて話し合いが進められることになったら、大変有難い事になってくるであろうなと思うのです。信一つの集まり。
ですから先ず私の心の中に、その中心になれる程しの、例えば喜代司さんの例をとるならば、喜代司さん自身が少しは抜きん出ておる。皆の信心、抜きん出ておる信心の者が中心になって家族中で共励をする、親戚中で共励をする。結局はなるほど喜代司さんの言われるのが本当だなぁと言う事になってくるであろうようにです。皆さんが自分の家の中心にならなければいけん。成程お母さんの言いなさるのがほんなことだ。
成程お父さんの話を聞けば、成程尤もだと、なら子供達もです、信一つになって行けれる、私は家族を先ず頂かせてもらわなければいけない。あなたそげなこと言いなさるばってん、そげな訳にはいかんですよと、嫁御が言うなら、どうするか。結局信じられていない私、それは私自身が、神様に対する信の力不足と悟らせて頂かねばならんと思うのでございます。子供の中に屑の子がとこう仰るが、私共はその段々信心をさせて頂いて、屑の子の自覚が出来て来るに致しましてもです。
どうぞ神様、あなたの心に添う私であります様に、神様に喜んで頂ける氏子にお引き立てお取り立てを下さいと言うて、願う信心にならなければならない。そしてその願いの焦点がです。自分の一家だけは信心で、自分自身の信を持ってリード出来れるだけの信心、信一つに纏めていけれるだけの信心。職場におってもそうですよ。日頃あの人が言うことならばと言う様な、信を受けてご覧なさい。
その人が発言するならば、その人の言う事に纏っていくでしょう。職場が、信一つの集まりになっていくようなおかげを頂かなきゃなりません。どうぞ信心して、おかげを受けてくれよと言う。これが神様の悲願でございましょう。神の悲願、悲しいまでの願いなのであります。そこでですね、私は此処に、もう一つ分からせて頂かねばならない。そういう中心をなす程しの信心。
家庭の中でも、教会の中でも、自分の職場においても、世間のすべての集まりにおいてもです。人間が利口であると賢い頭が良い。先日久留米からお参りをされた、八十幾つというお婆さんです。未だ六十ぐらいにしか見えません。女ながらも大きな事業をしておられます。商売も大きく手広くしておられます。がたまたまお参りをして見えて、こういう事を言われるですね。
先生私は若い時からですね、五目くらい先のことが分かると言う人生のことが。商売なら商売でもですね。まぁ分かりやすく言うならば、はぁこの品物買うときゃ、必ずいついつ頃までになったら、値段が上がるなぁという様なことが分かると言う自分で。実に頭の良いお婆さんです。計算でわかる。だからまぁあれだけ、おかげで商売も発展してきた訳でございますけれども。
五つも向うの事が分かるからですね、他の人達が、馬鹿のごと見えるわけですね、言うならば。これが私の難儀ですち言わっしゃった、頭の良過ぎることが。だから中々その神様にお願いをしたり、神様任せたいち言うこつがなか、なかなか言えん。自分で先の方が分かるのです。そして、私の言うたことは間違いないち言うくらいに、やっぱあるそうです。娘さんと二人で、大きな商売をなさっておられます。
それで娘達がもうお母さんが言う事が卸屋でんなんでんそうである。お母さんに、そういう意味に於いて信用がある。けれどもそれが難儀だとこういう。頭の良過ぎる事が。これはどうしても頭が良いと、信心でも頭で先ず分かろうと致しますね。そこに教学なんかと言う事が生まれて参ります。そして教学の勉強それは結構ですですけども。頭で神様を分かると言った様な事が、どの位浅薄な事か浅はかな事かということをです、その八十になるお婆さんは、段々分かってこられたわけですね。
人間の智恵、力というものが、人の五倍例え知恵があったところで、それは大した事じゃないというふうに悟っておられる。そこでですね、私どもはね、私どももお互い、馬鹿と阿呆で道を開けと仰るけれども、馬鹿じゃない。そうですね。まあ一通りこうやって、お話を、まあ私どもでもそう思う。自分も本当に馬鹿じゃないと思う。皆さんもそうでしょう。俺は馬鹿だ阿呆だと思いなさる方はなかろうと思う。
そういう例えば、利口者なのですからお互いが。その利口者がです頭の良い者がです、馬鹿と阿呆になる稽古をするという事なのです。どうしてもですね、やはり信一つの集まりの中心にでもならねばならんと言う者は、いよいよ利発であっては駄目、賢かっては駄目、いよいよ豊かに大きゅうくなる。言うならば馬鹿と阿呆になる稽古を、本気でしなければいけない。誰が何と言うてもそれを黙ってそれを受けてやれる信心。
又は、有難く受けてやれる信心。そういう人柄がです、出来てこなければいけない。上に立てば立つ程、私はそういう生き方こそがです、信を一つにして行く事だと思うですね。そういう意味で、又喜代司さんの例をとりますけれども。もうあらゆる場合にです、弟達夫婦のためにでもです。これはまぁ昔からそうですけども、本当にあんたが一人で馬鹿と阿呆になっときゃあんた方が治まると、私はいつも申しますが、自分でもそれを言うておられる。利口な場に出ろうとしない。
それが結局は、どういう事になっておるかと言うと、自分の一家だけではない、親戚までももの中心になる。成程喜代司さんの言われるのが一番本当だ。喜代司さんが言われるのがという事になってくるわけであります。まぁそういう喜代司さんも、あのように、大変頭の良い人です。その頭の良い人がです、ある意味において、自分を虚しうしておる、自分を殺しておる。
私は馬鹿と阿呆になると言うことは、そういう事だと思うです。そげな事あんた言いなさったっちゃと言う時は、自分が出てきておる訳です。だから喜代司さんの商売の上にでも、あのようなおかげを受けておられると言う事になるのです。今日は子供の中に屑の子があれば、それが可愛いのが親心じゃと。これは親心の切々たるもの。自分の子供の中にでも、言うことをきかぬ子は親でも仕方がない。
どうぞそれが信心になってくれるという事。昨日も、帰ってから話した事ですけれども、ここ二、三日、若先生が中耳炎で、もう前にも一回ありましたが、大変な「うずき」つつき斡旋するそうですね、あれが。それでその、大祓でも、声が上げられん訳です。ですから今、昼の御祈念などは、光昭が代わって、昨日からやっております。もうとにかく、気張ることが出来ない。
大きな声を出すことも出来ないように痛いと言っておりますから。私は若先生に申しました。あんたが私が言うことを聞かんけん、神様がこうそれこそ焼火箸を使うちから、こうやって耳をほがしてやりござるとこたいという意味の事を言うて、笑うた事ですけども、あながち、これは笑い話じゃないと、私は思うですよ。本当にそういう自覚に立つこと。それは、私の願い以上に動いてはくれます。け
れども私の願い通りには中々動きません。ですからその辺の所をですね、まぁ願い以上に動いてくれたら、是に越した事はないのですけれども。やっぱり人間としての親子関係の場合は、矢張り親の言う事も聞かせたい。又親の言う事の方が本当であると思うことがあるのです。ですから例えば屑の子であるというものがです。本当にお父さん任せになろう。お父さんの言われる通りの事になろうという時に、それが本当の孔子だと思います。親孝行というものは、それだと思う。
神様のよい氏子という事になれば、神様のお心を中心にして動くと言う事になりましょう。だからそういう願いを持たなければいけない。教会全体の場合でもそうです。色々と討議されること協議されることがございます。話合いがあります。そして結局は親先生にお伺いしてからと言うて、若し解決するおかげが頂かれるとするならば、それは信一つの集まりという事になりましょう。その信一つのおかげを頂くことの為に、その中心にならせて頂く私ども一人一人がです。
先ず豊かな大きな、見ようでは、馬鹿じゃろうか阿呆じゃろうかと思われるくらいにです。一つおかげを頂きたい。それが馬鹿ではないですから、阿呆ではないですから。馬鹿ではない阿呆ではない、自分の考え自分の頭脳の方がです。親よりもしっかりしているという事は事実かも知れませんけれども、そこを虚しうしていくと言う事が信心であり、信を一つにして行けれる原動力になるものはそこにある。
そこで私どもが屑の子から、神様に喜んで頂けれる信者氏子にお取り立て下さい、という事にならせて頂いて。いわば神様任せの生活という事になってくるのじゃないでしょうか。合楽に御縁を頂いておりましても、自分の都合の良い事は親先生任せになるけれども。都合の悪い事はそんなわけにはいけんと言うのであっては、未だ信一つの集まりという事になっていない証拠。
又、私自身も信一つの集まりの中心になる資格が自分自身ないなと、私自身も分からなければならない事だと思います。それを自分の心の中に、家庭の中に、一つ思うてみるが良い。せめて家庭の中くらいはです、信一つの集まりであるような家庭を頂きたい。そこに必ず、信心は家庭に不和の無きが元という元が出来ますから、その元がおかげの元にならん筈も、又、ありません。
どうぞ。